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2016年4月7日木曜日

「ローマ人の物語」で描かれるキリスト教

「ローマ人の物語」の中で、塩野七生がどのようにキリスト教を描いているのかを抜き出してみた。



1.悪名高き皇帝たち[二] 18 (177-178P) 


イエス・キリストの処刑も、イェルサレムの祭司たちで構成された法廷が死刑の判決を下し、当時のユダヤ長官のポンツィオ・ピラトがOKを与えたので実施されたのである。

ピラトがユダヤ側の圧力に屈せずに、自分が体現するローマの法に従って行動していたとしたら、イエスの十字架上の死は実現しなかったのである。

神の名を簡単に口にすることはユダヤ教ならば極刑に値しても、神々のたくさんいるローマでは罪にもならないからだ。

また、社会不安の源になる可能性大という理由も、実際になったわけではなく可能性にとどまるならば、ローマ法では追放に処されて終わりだった。

だが、十字架上で死なずに黒海あたりに追放になったイエスでは、後のキリスト教拡大の起因になりえなかったであろう。

ピラトはこの一事だけでも、祖国ローマに害をもたらしたのである。



2.迷走する帝国[下] 34 (114-115P)


ローマ皇帝アウレリアヌスの前に、互いに争う二派の代表が呼び出された。

争点とは、キリスト教会では、ローマの司教とアンティオキアの司教のどちらが上位に立つべきか、であった。

ローマの司教が上位であるべきとする派と、アンティオキア司教上位派で争っていたのだった。

この問題の裁決を求められた皇帝アウレリアヌスは、何を判断の基準にしたのか不明だが、キリスト教会ではローマの司教が最上位にくるという裁決を下したのである。

これが、キリスト教徒が決めたことではなく、キリスト教徒が決めたことであったという事実が興味深い。


3.キリストの勝利[中] 39 (177、68-69P)


後世が信じ込んでいるようには、四世紀のローマ帝国はキリスト教一色ではなかった。

いまだ異教勢力は、キリスト教勢力が強かった帝国の東方でさえも無視できない力をもっていた。

ユリアヌスの登位を機に各地で頻発した異教徒たちのキリスト教コミュニティへの反撃が、それを実証している。

また、キリスト協会自身も内部抗争が激しく、近親憎悪ではないかと思うほどに、アリウス派とアタナシウス派は憎み合っていたし、さらにこの両派の内部でも、教理の解釈の微細なちがいをかかげての抗争は激増していたのである。


ユリアヌスは、後代の歴史家たちがこぞって言う、「キリスト教と異教の抗争の最後の世紀」であった四世紀のローマ帝国に生きた人の一人なのである。

それで、「背教者」と弾劾されることになるユリアヌスの行った反キリスト教会とされる政策だが、それを一言でまとめれば、ローマ帝国民の信教状態を「ミラノ勅令」にもどした、のである。

ユリアヌスによってふたたび、あらゆる信仰がその存在を公認された。

ギリシア・ローマの神々もエジプトのイシス神もシリア起源のミトラ神もユダヤの髪も、キリスト教内部でも、これまで教理解釈の違いで争ってきた、三位一体説をとるアタナシウス派もそれに反対するアリウス派も、またこの二派以外の他の派も、何もかもがOKということになったのである。

信仰の完全な自由を保証する以上は、「異教徒」という蔑称も、「異端」という排斥の想いも、あってはならないというのが、「全面的な寛容」の名の許に向上された、皇帝ユリアヌスの勅令であった。


4.キリストの勝利[下] 40 (138-140P)


人間は、何かにすがりたいから宗教を求める。

だが、すがりたい想いはなぜか、唯一神にお願いするのははばかられるような、身辺の雑事であることが少なくない。

昔は、夫婦喧嘩にさえも守護神がいて、その神に祈願するのでこと足りたのだが、一神教の世の中になった今では、夫婦喧嘩を担当していた女神ヴィリプラカもアウトローの一人になってしまっている。 

と言って、唯一最高の神や、その子イエス・キリストにお願いするのも気がひける。

誰か他に、もう少し大仰でなく気軽にすがれる守護者はいないものか。

人々の素朴で健全なこの願望を、アンブロシウスは汲み上げる方策を考え付いたのであった。

とはいえ、キリスト教では神は一人しか認めていない。

ゆえに昔の神々を復活させることはできない以上、新たな守護者を見つける必要があった。

アンブロシウスが考えついたのが、聖人を大量に生産することである。

一神教の世界での敬いの対象であるからには、多神教のような「守護神」ではなく。「守護聖人」となる。

それでも、アンブロシウスは一神教は守りながら民衆の素朴な願望も満足させるという離れ技を、見事なまでに成功させたのであった。


2013年4月1日月曜日

ローマ皇帝の通信簿(アウグストゥス帝~テオドシウス帝)

塩野七生著の「ローマ人の物語」を参考に、個人的主観で、ローマ皇帝の通信簿を作成中です。

評価項目は以下の通り
・戦争…本人もしくは配下の軍事的才能
・民衆…民衆からの人気
・軍隊…軍隊からの支持
・元老…元老院からの支持
・治世…3年未満1、3~5年未満2、5年~10年未満3、10~20年未満4、20年以上5
・安定…反乱(内乱)、外敵・蛮族に侵入が発生した場合は低評価。ローマ帝国に住む人々の幸福度合
・滅亡…マイナスポイント。衰退につながる政策。
・ボーナス…偉業を達成

≪参考≫
■ユリウス・カエサル 暗殺
戦争5、民衆5、軍隊5、元老1、治世1、安定1 ボーナス5 合計23
※ガリア制圧、政敵ポンペイウスを撃破、帝政への道を開く

≪帝政初期≫
■アウグストゥス(紀元前30-14) 病死
戦争4、民衆5、軍隊4、元老4、治世5、安定3 ボーナス5 合計30
※内乱を終結、帝政の確立に貢献

■ティベリウス(14-37) 病死
戦争4、民衆2、軍隊3、元老2、治世5、安定4 ボーナス3 合計23
※帝政を盤石に。ゲルマニアから撤退。

■カリグラ(37-41) 暗殺
戦争1、民衆2、軍隊3、元老2、治世2、安定3 合計13

■クラウディウス(41-54) 暗殺
戦争3、民衆2、軍隊4、元老3、治世4、安定5 合計21
※歴史家皇帝。ブリタニア制圧

■ネロ(54-68) 自殺
戦争3、民衆2、軍隊1、元老1、治世4、安定3 合計14

■ガルバ(68-69)暗殺
戦争1、民衆3、軍隊1、元老4、治世1、安定2 合計12

■オトー(69)自殺
戦争1、民衆3、軍隊3、元老3、治世1、安定2 合計13

■ヴィテリウス(69)謀殺
戦争1、民衆2、軍隊2、元老3、治世1、安定1 合計10

■ヴェスパシアヌス(69-79) 病死
戦争3、民衆4、軍隊3、元老3、治世3、安定4 合計20
※ユダヤ戦役、コロセウム建設

■ティトゥス(79-81) 病死
戦争3、民衆4、軍隊4、元老4、治世1、安定5 合計21
※ユダヤ人の反乱を鎮圧、ヴェスヴィオ火山の噴火

■ドミティアヌス(81-96) 暗殺
戦争2、民衆3、軍隊5、元老1、治世4、安定3 合計18
※ゲルマニア防壁の建造

≪五賢帝時代≫
■ネルヴァ(96-98) 病死
戦争2、民衆3、軍隊3、元老5、治世1、安定5 合計19

■トライアヌス(98-117) 病死
戦争4、民衆5、軍隊5、元老5、治世5、安定5 総合29
※ダキアとアラビアを属州化。帝国の版図が最大化。 

■ハドリアヌス(117-138) 病死
戦争3、民衆4、軍隊5、元老3、治世5、安定4 総合24
※ハドリアヌスの防壁の建造、国境線強化、イェルサレムからのユダヤ人の追放 

■アントニヌス・ピウス(138-161) 病死
戦争1、民衆5、軍隊4、元老5、治世5、安定5  合計25

■マルクス・アウレリウス・アントニウス(161-180)  病死
戦争3、民衆5、軍隊4、元老5、治世4、安定2  合計23
※ゲルマン民族との戦いを優位にすすめ、ボヘミアの属州化を計画するも病死により頓挫。

≪五賢帝以後≫
■コモドゥス(180-192) 暗殺
戦争2、民衆2、軍隊4、元老2、治世4、安定4  合計19
※ゲルマン民族と和平。

■セプティミウス・セヴェルス(193ー211) 病死
戦争4、民衆4、軍隊4、元老2、治世4、安定3 滅亡-3 合計19
※北部メソポタミアを属州化。軍制改革。

■カラカラ(211-217) 暗殺
戦争4、民衆1、軍隊2、元老2、治世3、安定5、滅亡-5 合計12
※属州民とローマ市民の差別を撤廃、国境線強化

■マクリウス(217-218) 暗殺
戦争2、民衆2、軍隊1、元老2、治世1、安定4 合計12
※北部メソポタミアを割譲

■ヘラバガルス(218-222) 暗殺
戦争2、民衆1、軍隊1、元老2、治世2、安定4 合計12

■アレクサンデル・セヴェルス(222-235) 暗殺
戦争3、民衆2、軍隊2、元老3、治世4、安定4 合計18
※北部メソポタミア奪還

≪軍人皇帝時代(元老院の影響力の低下)≫
■マクシミヌス・トラクス(235-238) 暗殺
戦争4、民衆3、軍隊3、元老1、治世2、安定4  合計17

■ゴルディアヌス3世(238-244) 暗殺
戦争2、民衆3、軍隊2、元老3、治世3、安定2  合計15
※ササン朝にアンティオキアを略奪されるが、のち占領されていた北部メソポタミアを再復。

■フィリップス・アラブス(244-249) 自殺
戦争2、民衆3、軍隊1、元老2、治世3、安定3 合計14
ササン朝と講和、北部メソポタミアの割譲、建国1千年祭

■デキウス(249-251) 戦死
戦争3、民衆3、軍隊4、元老3、治世1、安定2 合計16
※社会の秩序を取り戻そうとキリスト教徒を弾圧。防衛線再構築。ゴート族との戦闘中に戦死。

■トレボニアヌス・ガルス(251-253) 暗殺
戦争1、民衆2、軍隊1、元老3、治世1、安定2 合計10
※ゴート族と講和。その後30万の蛮族の大侵入、各都市を略奪して引き上げる。

■ヴァレリアヌス(253-260) 獄死
戦争2、民衆3、軍隊4、元老3、治世3、安定2 合計17
※公務も兵役も回避するキリスト教徒を弾圧。ササン朝のシャープール1世に捕らわれる。

■ガリエヌス(260-268) 暗殺
戦争2、民衆2、軍隊1、元老2、治世3、安定1、滅亡-5 合計6
※ガリア帝国・パルミア王国の独立。ゲルマニア防壁内を放棄。元老院と軍隊の分離。

■クラウディウス・ゴティクス(268-270) 病死
戦争4、民衆3、軍隊4、元老4、治世2、安定3 合計20
※ゴート族を征した者という意味の「ゴティクス」と呼ばれる。

■アウレリアヌス(270-275) 謀殺
戦争5、民衆4、軍隊4、元老2、治世2、安定2 ボーナス5 合計24
※ローマに城壁を建設。属州ダキアの放棄。パルミア攻略、ガリア再復し、ローマ帝国再統一。

■プロブス(276-282) 謀殺
戦争3、民衆4、軍隊4、元老3、治世3、安定1 合計18

■カルス(282-283) 事故死
戦争4、民衆3、軍隊4、元老3、治世1、安定4 合計19
※北部メソポタミア再復

≪専制君主制時代(独裁の始まり・中世への礎)≫
■ディオクレティアヌス(284-305) 病死
戦争4、民衆-、軍隊4、元老-、治世5、安定4、滅亡-1 合計16
※四頭政、軍隊倍増、防衛線強化、キリスト教徒弾圧、元老院と軍隊の完全分離、職業の世襲化

■コンスタンティヌス(307-333) 病死
戦争4、民衆-、軍隊4、元老-、治世5、安定2、滅亡-1 合計14
※コンスタンティノープルへ遷都、キリスト教を公認

■コンスタンティウス(337-361) 病死
戦争3、民衆-、軍隊3、元老-、治世5、安定2 滅亡-3 合計10
※ライバルの粛清・内戦による軍事力・国力の低下、蛮族の侵入常態化、キリスト教を優遇

■ユリアヌス(361-363) 戦死
戦争4、民衆-、軍隊4、元老-、治世2、安定3 合計13
※キリスト教優遇策を撤廃、ペルシャ遠征失敗

■ヨヴィアヌス(363-364) 病死
戦争2、民衆-、軍隊4、元老-、治世1、安定4 合計11
※ユリアヌスの政策の廃棄、北部メソポタミアの割譲

■ヴァレンティニアヌス(364-375) 急死
戦争4、民衆-、軍隊3、元老-、治世4、安定3 合計14

■ヴァレンス(364-378)戦死
戦争1、民衆-、軍隊3、元老-、治世4.安定1 滅亡-1 合計8
※帝国内にゴート族の移住を認めるが、そのゴート族に大敗

■テオドシウス(378-395)病死
戦争3、民衆-、軍隊3、元老-、治世4、安定3 合計13
※異端(アリウス派)・異教の弾圧、ローマ帝国のキリスト(カトリック)教国化



「善帝」ベストランキング
1位:アウグストゥス(紀元前30-14) 30
2位:トライアヌス(98-117) 29
3位:アントニウス・ピウス(138-161) 25
4位:ハドリアヌス(117-138) 24
5位:アウレリアヌス(270-275) 24
6位:ティベリウス(14-37) 23
7位:マルクス・アウレリウス・アントニヌス(161-180) 23
8位:ティトゥス(79-81) 21
9位:クラウディウス(41-54) 21
10位:クラウディウス・ゴティクス(268-270) 20


「悪帝」ワーストランキング
1位:ガリエヌス(260-268) 6
2位:ヴァレンス(364-378) 8 
3位:ヴィテリウス(69) 10
4位:トレボニアヌス・ガルス(251-253) 10
5位:コンスタンティウス(337-361)10
6位:ヨヴィアヌス(363-364) 11
7位:ガルバ(68-69) 12
8位:ヘラバガルス(218-222) 12
9位:カラカラ(211-217) 12
10位:オトー(69) 13

2013年3月21日木曜日

【8】★ローマ人の物語41~43 ローマ世界の終焉(新潮文庫)

塩野七生氏のローマ人の物語を読み終えた。大学生の頃から呼んでいるので、足かけ10年にもなる。

文庫版の最終巻の冒頭は、このように始まっている。『人間ならば誕生から死までという、一民族の興亡を書き終えて痛感したのは、亡国の悲劇とは、人材の欠乏から来るのではなく、人材を活用するメカニズムが機能しなくなるがゆえに起こる悲劇、ということである。』

衰退する西ローマ帝国に二人の司令官が奮闘する。ヴァンダル族出身のスティリコと、蛮族中の蛮族と恐れられたフン族を撃退したアエティウスである。だが、国を想って、一生懸命、働いた結果、二人とも、時の皇帝に殺害される。
こうなると、帝国は滅亡を待つしかない。

滅亡後、西ローマ帝国の領土はゲルマン系の諸民族の各王国が成立し、ゲルマン民族は、それぞれの土地のローマ人と共生するようになる。およそ半世紀後、そこに解放を掲げて、東ローマ帝国軍が侵攻を開始した。

塩野氏は、こう述べている。『戦争は、弁解の余地もない「悪」である。その「悪」に手を染めねばならなくなった軍事関係者が頭にたたきこんでおかねばらならないことの第一は、早く終える、に尽きるのであった。(下、142P)』

『十八年におよんだユスティニアヌス帝によるイタリア再復戦争も、ようやく終結したのである。ローマ帝国が健在であった時代は帝国の本国であったイタリアは、考えられないくらいの打撃と被害を受けたのであった。一世紀前の五世紀に繰り返された蛮族の来襲よりも、自分たちとは同じカトリックのキリスト教を信じるビザンチン帝国が始めたゴート戦役のほうが、イタリアとそこに住む人々に与えた打撃は深刻であったのだ。このことは近現代の歴史研究者の多くが認める事実である(下、208P)』

2013年3月17日日曜日

【7】★ローマ人の物語38~40 キリストの勝利(新潮文庫)

塩野七生著のローマ人の物語キリストの勝利(新潮文庫)を読んだ。紀元4世紀。1000年続いた古代ローマは滅亡に急速に向かっている。荒れた農村を復興してくれるものとして期待した蛮族(難民)の帝国内への受け入れは、まったく期待通りにならずに国庫の支出の増大と国内の治安悪化をもたらした。また、カトリック派による国政の乗っ取りは痛々しい。同じキリスト教の数的に言えば多数派のアリウス派への弾圧、および伝統的なローマの宗教への弾圧。塩野氏は客観的にそれらを述べている。客観的であるからこそ、ローマ人の物語は私にとっても面白い。とにもかくにも寛容な国家、ローマ帝国は、カトリック派の国政への進出によって不寛容な国家へと変貌を遂げた。もはや国家の元首の皇帝でさえ、司教に頭を下げなければならなくなった。


「宗教が現世をも支配することに反対の声をあげたユリアヌスは、古代ではおそらく唯一人、一神教のもたらす弊害に気づいた人ではなかったか、と思う。 古代の有識者たちがそれに気づかなかったのは、古代は多神教の世界であって、自分の信ずる神とはちがっても、他者の信ずる神の存在を許容するこの世界では、それを許容しない世界を経験していないために、考えが至らなかったにすぎない(キリストの勝利〔中〕178P)」

「神の真の教えにいっこうに目覚めない私のような不信心者ならば、地獄に落ちると脅されても、見て帰った人がいないのだから地獄の存在とて確かではない、とでも言ってこの種の勧誘には乗らないが、古代人はそうはいかなかったのである。ギリシャ人は薄明りの淋しい冥府の存在を信じていたし、ローマ人は、死ねば二人の天使が両側からささえて天に昇る、と信じていたのである。このように考えるのに慣れてきた古代の人々には、そこに落ちたら責め苦しか待っていない地獄は、新しい概念でもあった。新しければ、なおのこと恐怖もつのる(キリストの勝利〔下〕70-71P)」

「人間は、何かにすがりたいから宗教を求める。だが、すがりたい想いはなぜか、唯一神にお願いするのははばかられるような、身辺の雑事である場合が少なくない。昔は、夫婦喧嘩にさえも守護神がいて、その神に祈願するのでこと足りたのだが、一神教の世の中になった今では、夫婦喧嘩を担当していた女神ヴィリプラカもアウトローの一人になってしまっている。(中略)それで、アンブロシウスが考えついたのが、聖人を大量に生産することである(キリストの勝利〔下〕138-139P)




2013年3月2日土曜日

【6】ローマ人の物語35~37 最後の努力(新潮文庫)

紀元4世紀前半、古代ローマ帝国はパクスロマーナ(紀元前27年~紀元180年)から100年以上経ち、誰の目にも国家の衰退が明らかになっていた。この時の皇帝はコンスタンティヌス。前の皇帝のディオクレティアヌスとともに様々な政策を行っていた。「ディオクレティアヌスとコンスタンティヌスの二人の皇帝によって、ローマ帝国は再生したとする研究者は多い。だがこの二人は、ローマ帝国をまったく別の帝国に変えることによって、ローマ帝国を起たせておくことには成功したのである」

研究者の一人は言う。「もしもコンスタンティヌスが存在しなかったとしたら、キリスト教会は、教理の解釈をめぐってのたび重なる論争とその結果である分裂につぐ分裂によって、古代の他の多くの宗教同様に消え失せていただろう」313年、この皇帝が出した「ミラノ勅令」で宗教の自由を認め、325年、ニケーア公会議を開き、この会議で決まった「形」でのキリスト教が、今に至るまでの「キリスト教」となった。

塩野氏の本によると、コンスタンティウスはどうやら異端とされたアリウスの考えに共鳴していたようだが、それまで正統的考え方とされてきた三位一体説を認め、キリスト教会の組織としての統一を重視したとされる。 「権力者に権力の行使を託すのが人間であるかぎり、権力者から権力を取り上げる、つまり権力者をリコールする、権利も人間にありつづけることになる。だが、もしもこの権利が、人間ではなく、他の別の存在にあるということになったらどうだろう」。コンスタンティヌス帝の必要を満足させる神は、一神教の神しかいなかった。

-------------------おまけ--------------------
塩野氏は宗教を一歩引いて見ている。興味深い箇所を引用してみる。 「論理的に見るならば、神とイエス・キリストとは同位ではないとするアリウス説の方に説得力がある。また、十字架上で死んでも、人間に対して優しく深い真実の道を説いた人としてのイエスで、充分ではないかとする考え方もあるだろう。とは言うものの、キリスト教徒ではない私でも、三位一体説のほうを選択したキリスト教の聖職者たちの想いもわかるのだ。なぜなら人間は、真実への道を説かれただけでは心底からは満足せず、それによる救済まで求める生きものだからである」 「アリウスの説よりも三位一体説のほうを選択した四世紀当時のキリスト教会の判断は、事実か事実でないかよりも信じるか信じないかに基盤を置く宗教組織としては、まことに適切であったと考えるしかない。いや、三位一体説を採用したからこそ、世界宗教になっていく道が開けたとさえ思う。そして、これを決めたのが、コンスタンティヌスが主導したニケーア公会議なのであった」

2013年3月1日金曜日

【5】★ローマ人の物語32~34 迷走する帝国(新潮文庫)

三世紀の危機の要因
・帝国指導者層の質の劣化
・蛮族の侵入の激化
・経済力の衰退
・知識人階級の知力の減退
・キリスト教の台頭

ローマ帝国の衰退の原因の一部となった3世紀の二つの法律を紹介したい

◆皇帝カラカラ(在位211~217)のアントニヌス勅令
ローマ帝国の社会の層は、皇帝-元老院階級-騎士階級-一般階級-解放奴隷-奴隷というように細分化されていた。細分化が可能であったのは、民主政体をとっていないローマでは、市民全員の平等の維持に気を使う必要がなかった。だが、この階級の細分化が、異分子の導入を促進させる結果になった。なぜなら、各階層の流動性さえ機能していれば、同質社会よりも異質社会のほうが風通しを良くするには都合がよい。他国人のような異分子に対しても、まずは最後列に並んでください、その後の前進はあくまでもあなた次第と言えるからである。それを皇帝カラカラは一変させてしまった。「アントニヌス勅令」と呼ばれた法律で、ローマ帝国内に住む自由な身の人々全員にもれなくローマ市民権を与えると定めた。紀元4世紀以前のローマ帝国の政策に賛成したことのないキリスト教会だが、この法律だけは、人道的であったと誉めている。だが、これによる影響は、ヒューマンな法と誉めていられないほど大きなものになる。
まず第一に、従来のローマ市民権所有者から、帝国の柱は自分たちだという気概を失わせた。
第二に、新たにローマ市民の列に加わった旧属州民からは、向上心や競争の気概を失わせた。
第三だが、これこそがカラカラ帝の意図を裏切る結果であったことと思うが、ローマ市民に格上げされたはずの旧属州民なのに、積極的に帝国を背負う意気を一向に示さなかった。現代の投票時の棄権率の高さも、これを実証する一例になるだろう。
第四は、属州民とローマ市民の境を撤廃したことで、ローマ社会の特質でもあった流動性を失わせてしまった。
最後に、奴隷や下層市民に生まれた人には上昇の機会が断たれることとなる。
カラカラによって、ローマ市民権は長く維持してきたその魅力を失ったのである。魅力を感じなくなれば、市民権に付随する義務感も責任感も感じなくなる。そしてそれは、多民族多文化多宗教の帝国ローマが立っていた、基盤に亀裂を生じさせることにつながった。誰でも持っているということは、誰も持っていないと同じことなのだ。
(上・28-51p)

◆皇帝ガリエヌス(在位253~268)の法律
ガリエヌスが立案し成立させた法の中で後世の評価が一致して悪いのは、「元老院」と「軍隊」の完全分離を定めた法である。元老院議員を、ローマ軍の将官クラスから、完全に排除することを決めた法であった。
なぜこのような政策を、ガリエヌスが考え実施したかはわからない。苦境の打開に奔走する皇帝に元老院が協力しようとしないのに腹を立てたからだという説がある。また、もはや常態と化している蛮族の来襲を迎え撃つには軍事のプロしか通用せず、安全な首都ローマの元老院で演説の草稿を練るしか能のない元老院議員は、戦場では役に立たなくなったからだ、とする説もある。おそらく、二説とも正しいのであろう。
元老院議員たちは、自分たちを軍務からしめ出すこの法に賛成票を投じたのである。
兵士を率いて敵陣に突撃する一個中隊の隊長ならば、政治とは何たるかを知らなくても立派に職務は果たせる。しかし、軍務とは何たるかを知らないでは、政治は絶対に行えない。軍人は政治を理解していなくてもかまわないが、政治家は軍事を理解しないでは政治は行えない。
ギボンの昔から現代に至るまでのローマ史の専門家による、このガリエヌスの法に対する批判を一言でまとめれば、力に関与しなくなれば統治力も失われる、である。軍務と政務を完全分離したことによる人材形成面での弊害も、その後のローマにもたらした影響は大きかったと信ずる。なぜなら、ガリエヌスの後に排出してくる軍人皇帝たちを見ても、軍人としての能力では優れているにもかかわらず、政治家ではなかった。この事実が実証するように、以後のローマ帝国は、軍事もわかる政治家、政治も分かる軍人を産まなくなってしまう。これもまた、ローマの非ローマ化、の一つであるのだった。
(下・36-40p)




2013年2月22日金曜日

【4】★★★ローマ人の物語11~13 ユリウス・カエサル ルビコン以後(新潮文庫)

「ローマ人の物語11~13 ユリウス・カエサル ルビコン以後(新潮文庫)」はいつ読んでも面白い。この巻は、共和政ローマの内戦とカエサル暗殺そして、アントニウスとアウグスティヌスとの内戦という、激動の時代を扱っている。整理するため、内戦からカエサルの暗殺まで、流れを自分なりにまとめてみた。



紀元前41年1月12日、ルビコン川を渡って、国家の反逆者となったカエサルは、そのままローマを制圧した。この時点でカエサルの勢力圏は、ローマ本国(シチリア、コルシカ島など含む)とガリア。一方の政敵ポンペイウスは、ギリシア、小アジア、シリア、エジプト等のオリエントとアフリカ、スペインであった。経済力の差でいくと、ガリアは4千万セステルティウスの属州税の支払い能力に対し、小アジアとシリアだけで2億セステルティウスであり、圧倒的にポンペイウスの方が有利であった。

カエサルとポンペイウスとの内戦をまとめてみる(○が勝利、●が敗北)。
<スペイン戦役(紀元前49年6月~9月)>
○カエサル軍(指揮官カエサル)の兵力⇒6個軍団2万7千の重装歩兵に騎兵は3千。
●ポンペイウス軍(指揮官アフラニウスとペトレイウス)の兵力⇒5個軍団3万の重装歩兵に現地兵4万8千の計7万8千の歩兵。騎兵は5千。他にヴァッロ率いる2個軍団。
結果⇒カエサルのスペイン制圧。スペインにおけるポンペイウス軍の解体。

<アフリカ戦線(紀元前49年8月)>
●カエサル軍(指揮官クリオ)の兵力⇒2個軍団2万五千と5百騎⇒全滅
○ポンペイウス軍(ヌミディア王ユバ)⇒1万の歩兵、2千の騎兵、60頭の象

<アドリア海の制海権を巡る戦い(紀元前49年8月)>
●カエサル軍(指揮官ドラベッラとアントニウス)⇒20個大隊1万2千と40隻⇒ほぼ全滅
○ポンペイウス軍(指揮官リボ)

<ドゥラキウム(ギリシア西部)攻防戦(紀元前48年4月~7月)>
兵力の少ないカエサルが、ポンペイウスの守るドゥラキウムを包囲
●カエサル軍(指揮官カエサル)⇒2万と8百騎⇒歩兵1千騎兵2百騎が戦死
○ポンペイウス軍(指揮官ポンペイウス)⇒6万
結果⇒カエサルの撤退。ギリシア中部への転進。

<ファルサルス(ギリシア中部)の会戦(紀元前48年8月)>
○カエサル軍(指揮官カエサル)⇒2万2千と1千騎
●ポンペイウス軍(指揮官ポンペイウス)⇒4万7千と7千騎⇒死者6千、捕虜2万4千
結果⇒ポンペイウス軍完敗。ポンペイウスはエジプトへ逃亡し、その地で殺害さる(同年9月)。
カエサルは、かつての盟友の死をその著作に「アレクサンドリアで、ポンペイウスの死を知った」とだけ書いた。

現代のイギリスの研究者は、次のように書く。
「ポンペイウスは、戦場ならば、カエサルが敵にまわすに値したただ一人の武将であった。だが、ドゥラキウムでのカエサルが、敗北を喫した軍では最後に戦場を捨てた戦士であったのに対し、ファルサルスでのポンペイウスは、最初に戦場を捨てた戦士だったのである。そして、天才と単に才能のある者を分けるのは知性と情熱の合一だが、ポンペイウスにはそれが欠けていた」


紀元前44年3月15日はカエサル暗殺の日である。暗殺実行犯の14人の動機は、王政への移行を阻止し、元老院主導の共和政にもどすことにあった。「人間ならば誰にでも、すべてが見えるわけではない。多くの人は、自分が見たいと欲する現実しか見ていない」とカエサルは言った。カエサルの考えていたのは「帝政」という新政体であったが、それを「見たいと欲しない」彼らが見ていたのは、あくまでも初期のローマの政体であり、当時の他の君主国の政体でもあった「王政」であったからだ。王政がカエサルの窮極の意図ならば、それを実現の前につぶさねばならぬ。これで14人は一致したのである。

暗殺派の精神的主柱キケロの考える「祖国」は、彼が理想としたのがポエニ戦役時代のローマであったことからも、本国に生まれたローマ人が、それもローマ人中のエリートである元老院階級が、主導権をふるって統治する国家であった。そのキケロにしてみれば、北のルビコン川に南のメッシーナ海峡という、本国と属州をへだてる国境は自明の理であり、その国境の内側だけが「祖国」であったのだ。
一方、カエサルの考えた「祖国」には、防衛線はあっても国境はない。本国に生まれたローマ市民の、しかもその中の元老院階級に生まれた者だけが、国政を専有しなければならないとも考えていない。被征服民族の代表たちに元老院の議席を与えて、ローマ人純血主義のキケロやブルータスらの反撥を買ってしまったくらいなのだ。カエサルには、国家のためにつくす人ならば、ガリア人でもスペイン人でもギリシア人でも、いっこうにかまわないのであった。ただし、カエサルの「祖国」は、ローマ文明の傘の下に、多人種、多民族、多宗教、多文化がともに存在しともに栄える、帝国であったことは言うまでもない。

イタリアの高校の歴史の教科書は、「3月15日」を次のように言い切る。
<懐古主義者たちの自己陶酔がもたらした、無益どころか有害でしかなかった悲劇>




2013年2月19日火曜日

【3】★ローマ人の物語8~10 ユリウス・カエサル ルビコン以前(新潮文庫)

ユリウス・カエサルは古代ローマ最大のスーパースターだ。お金も地位もないところからスタートした彼が、どのようにしてトップへの道筋を歩んでいくのかが描かれているのが、「ローマ人の物語8~10 ユリウス・カエサル ルビコン以前(塩野七生著、新潮文庫)」だ。著者が、このシリーズ中、一人の人物に最もページを割いていることからも分かるように、知れば、その人の魅力にひかれ、読むことも語ることも、時間を割くこと間違いなしだ。文章量の多さが、質の高さとイコールするものではないが、カエサルの濃密な人生は、現代の人々も魅了して止まない。


◆カエサルの人となりを表す文章の抜粋◆
一説によれば、会計検査官就任までにカエサルが積み重ねた借金の総額は、一千三百タレントにものぼったという。十一万以上の数の兵士を一年間まるまる雇える金額である。
それにしても、何に費やしたのか。政界キャリアをはじめる以前の借金なのだから、選挙運動費でもなければ、人気取りを狙った、剣闘士試合の主催費でも街道の修理費でもない。カエサル家の経済状態がつつましいものだったので他人から借りたのだが、諸々の史料からうかがえる費消先は、次の三つに大別できるようである。
第一は、自分自身のため。
カエサルの読書量は、当時の知識人ナンバー・ワンと衆目一致していたキケロでも認めるところであった。当時の書物は、高価なパピルス紙に筆写した巻物である。当然だが、高くついた。そのうえ、若きカエサルはお洒落の面でも有名だった。凝れば凝るほどお金はかかったのである。
カエサルのおおらかな借金の第二の理由は、史家たちによれば、彼の友人づきあいのおおらかさにあったとなる。
莫大な額になった借金の第三の原因は、愛人たちへのプレゼント代であった。この面でも彼のおおらかさは有名で、自ら選んだ高価な品を女たちに贈るので評判だった。
名家出身でも金持ではなく、輝かしいキャリアなど薬にしたくもなかったのが当時のカエサルだが、また、女性的と思われるほど整った顔立ちを美男とした古代では、特別な美男子でもなかったが、すらりと背は高く均整のとれた肉体と、生き生きとした黒い眼と、立居振舞いの争えない品位は、彼を、同年輩の若者たちに混じっていてもひときわ目立つ存在にしただろう。それに加えて、アイロニーとユーモアをふくんでの彼の会話も楽しかった。高価な物などを贈らなくても、女たちにモテたろう。しかし、贈物をもらえば、女は嬉しく思う。カエサルは、モテるために贈物をしたのでなく、喜んでもらいたいがために贈ったのではないか。女とは、モテたいがために贈物をする男と、喜んでもらいたい一念で贈物をする男のちがいを、敏感に察するものである。(120‐124P)




2013年2月17日日曜日

【2】★★★ローマ人の物語3~5 ハンニバル戦記(新潮文庫)

『ハンニバルとスキピオは、古代の名将5人をあげるとすれば、必ず入る二人である。現代に至るまでのすべての歴史で、優れた武将を十人あげよと、言われても二人とも確実に入るにちがいない([下]62P)』と著者の塩野七生氏は述べている。同じ格の才能をもつ名将同士が戦うのは、歴史上、まれな例であるらしく、実際にそれが起きるのがこの「ハンニバル戦記」だ。生死を賭けた駆け引きは読んでいて飽きない。と同時に国家や人生の無常も感じる内容だ。 第三次ポエニ戦争のローマ軍司令官スキピオ・エミリアヌスは、陥落したカルタゴの街を前にこのように言ったという。「今われわれは、かつては栄華を誇った帝国の滅亡という、偉大なある瞬間に立ち合っている。だが、この今、わたしの胸を占めているのは勝者の喜びではない。いつかはわがローマも、これと同じときを迎えるであろうという哀感なのだ」


≪第一次ポエニ戦争(前264~前241)≫
◆戦争勃発の原因◆
シチリア島の西部を支配していたカルタゴが、東北部の独立国メッシーナに侵攻したことがきっかけとなり、メッシーナはローマに救援を要請、ポエニ戦争の先端が開かれる。

◆主な戦域◆
カルタゴ領シチリアおよびカルタゴ領アフリカ

◆戦争の推移(ローマ側勝利を○、カルタゴ側勝利を●で表記)◆
・前264年
○ローマ軍の勝利(カルタゴと同盟していたシラクサ軍を撃破)
○ローマ軍の勝利(カルタゴ軍を撃破)
○ローマ軍シラクサを包囲
・前263年
○ローマとシラクサが講和
・前262年
○ローマが島南部のカルタゴ側の都市アグリジェントを攻略
・前260年
○ローマ海軍大勝(ミラッツォ沖の海戦:カルタゴ軍の死者3千、捕虜7千)
・前257年
○ローマ海軍勝利(パレルモ沖の海戦)
・前256年
○ローマ海軍大勝利(リカータ冲の海戦)
○ローマ軍、アフリカ北岸のカルタゴ側の都市クルペアを攻略
・前255年
●カルタゴ軍大勝利(アフリカでの会戦:カルタゴ軍1万6千VSローマ軍1万5百、ローマ軍の死者8千)→クルペアからの撤退(アフリカ侵攻作戦失敗)→撤退中、海難事故6万人死亡
○ローマ軍海軍勝利(ヘルマエウム岬の沖合の海戦)
・前253年
○ローマ軍、カルタゴ側の都市パレルモを攻略。 
○ローマ軍大勝利(パレルモ攻防戦、カルタゴ軍の戦死者2万)
・前249年
●カルタゴ海軍大勝利(トラパニ港外の海戦、ローマ軍の戦死者2万)
・前242年
○ローマ軍、カルタゴ側の都市マルサラを攻略
・前241年
○ローマ海軍勝利(エガディ諸島冲の海戦)
○ローマとカルタゴ、講和

◆講和内容◆
カルタゴのシチリアからの撤退、賠償金


≪第二次ポエニ戦争・ハンニバル戦争(前219~前202)≫
◆戦争勃発の原因◆
カルタゴの将軍ハンニバルがスペインにあるローマの同盟都市サグントを攻略。これにローマが宣戦布告したことで、戦端が開かれる。

◆主な戦域◆
イタリア、カルタゴ領スペイン、カルタゴ領アフリカ

◆戦争の推移◆
・前218年
●ハンニバル、歩兵9万、騎兵1万2千を連れ、カルタヘナから出陣→アルプス越えを達成した時の兵力は、歩兵2万、騎兵6千
●ハンニバル軍、勝利(イタリア北部・ティチーノの戦い;ハンニバル軍4千以上VSローマ軍4千→ローマ軍600名が捕虜に)
●ハンニバル軍、大勝利(イタリア北部・トレッビアの会戦:ハンニバル軍3万8千うち騎兵1万VSローマ軍4万うち騎兵4千弱→ローマ軍の戦死者2万)
・前217年
●ハンニバル軍、大勝利(イタリア中部・トラジメーノ河畔の戦い:ハンニバル軍5万VSローマ軍2万5千→ハンニバル軍の戦死者2千、ローマ軍の戦死者1万7千・捕虜6千)
・前216年
●ハンニバル軍、大勝利(イタリア南部・カンネの会戦:ハンニバル軍5万うち騎兵1万VSローマ軍8万7千うち騎兵7千2百→ハンニバル軍の戦死者5千5百、ローマ軍の戦死者7万)
●ローマの同盟都市でイタリア中部の中核都市カプアがハンニバル側につく
・前215年
●ローマの同盟都市シラクサがハンニバル側につく
●ハンニバル、マケドニア王国と同盟
・前213年
●ハンニバル、イタリア南部の中核都市ターラントを攻略
・前211年
○ローマ軍、シラクサを攻略
○ローマ軍、カプアを攻略
●カルタゴ軍、ローマ軍に大勝利(スペイン戦線にて)
・前210年
●ハンニバル軍、南イタリア戦線で勝利
○ローマ軍、ハンニバル軍に勝利(ネミストローネの会戦)
・前209年
○スキピオ率いるローマ軍、スペインのカルタゴの本拠地であるカルタヘナを急襲、攻略
○ローマ軍、ターラントを攻略
・前208年
○スキピオ軍、勝利(スペイン・ベクラの会戦:スキピオ軍2万5千VSカルタゴ軍2万五千→カルタゴ軍の死者8千、捕虜1万2千)
・前207年
○ローマ軍、アルプス越えしてきたカルタゴ軍に大勝利(ローマ軍4万VSカルタゴ軍5万)
・前206年
○スキピオ軍、大勝利、スペイン制覇(スペイン・イリパの会戦:スキピオ軍4万8千うち騎兵3千VSカルタゴ軍7万4千うち騎兵4千)
・前205年
○ローマ、マケドニア王国と講和
○スキピオ軍、イタリア南部のロクリを攻略、ロクリは10年ぶりにローマに復帰
・前204年
○スキピオ軍2万6千がアフリカに上陸
○カルタゴ軍1万4千がジェノヴァに上陸、イタリア北部に侵攻するが、敗北
○スキピオ軍、大勝利(アフリカでの戦い:スキピオ軍2万6千VSカルタゴ軍9万3千→カルタゴ軍の戦死者3万)
○スキピオ軍、勝利(アフリカでの戦い:スキピオ軍2万6千?VSカルタゴ軍5万2千以上?)
・前203年
○ハンニバル、イタリアの占領地放棄。1万5千のみ連れて、イタリア南部からアフリカへ撤退
○ジェノヴァのカルタゴ軍8千も、アフリカへ撤退
・前202年
○スキピオ軍、大勝利(アフリカ・ザマの会戦:スキピオ軍4万うち騎兵6千VSハンニバル軍5万うち騎兵4千→スキピオ軍の戦死者1千5百、ハンニバル軍の戦死者2万以上、捕虜2万以上)
○ローマ、カルタゴと講和

◆講和内容◆
カルタゴの海外領土の放棄、カルタゴの自衛レベルへの軍事力削減、賠償金


《第三次ポエニ戦争(前149~前146)》
◆戦争勃発の原因◆
ローマの同盟国ヌミディアのカルタゴ国内への侵攻に対するカルタゴ軍の反攻

◆戦争の結末◆
ローマ軍による2年以上のカルタゴの包囲の末、落城。市民6万人のうち5万人が奴隷に。700年の歴史を持つカルタゴの滅亡。カルタゴのかつての領土は、ローマの属州となり、「属州アフリカ」に変わった。


【1】ローマ人の物語1~2 ローマは一日にして成らず(新潮文庫)

このブログは、姉妹サイトの「私が選ぶ就職・キャリアの本50冊」より分離・独立して作成しました。テーマを絞っていくためです。今後ともよろしくお願いいたします。

まず最初に紹介する本は、「ローマ人の物語1、2 ローマは一日にして成らず(塩野七生著、新潮文庫)」です。これまでに、同シリーズの作品は、何冊か紹介してきましたが、この本は記念すべきシリーズ第一作となります。

小さな町にすぎなかったローマが大国となった理由に著者は、言及していますので、以下に挙げてみます。 ローマ興隆の要因について、三人のギリシア人は、それぞれ次のように指摘している。 ハリカルナッソスのディオニッソスは、宗教についてのローマ人の考え方にあった、とする。人間を律するよりも人間を守護する型の宗教には、狂信的傾向がまったくなく、それゆえに他の民族とも、対立関係よりも内包関係に進みやすかったからだろう。他の宗教を認めるということは、他の民族の存立を認めるということである。 自身政治指導者であったポリビウスとなると、ローマ興隆の要因は、ローマ独自の政治システムの確立にあった、と考える。王政、貴族政、民主政という、それぞれが共同体の一部の利益を代表しがちな政体に固執せず、王政の利点は執政官制度によって、貴族政の利点は元老院制度によって、民主制度のよいところは、市民集会によって活用するという、ローマ共和政独自の政治システムに興隆の因があるとしたのだった。なぜなら、この独自の政治システムの確立によって、ローマは国内の対立関係を解消でき、挙国一致の体制を築くことができたからである。 一方、プルタルコスとなると、ローマの興隆の要因を、敗者でさえも自分たちと同化する彼らの生き方をおいてほかにない、と明言している。(下・206~207P)

これら三人の史家の指摘は、私には三人とも正しいと思われる。それどころか、ローマ興隆の要因を求めるならば、この三点全部であると思うのだ。なぜなら、いずれも古代では異例であったというしかないローマ人の開放的な性向を反映していることでは共通するからである。 古代のローマ人が後世に遺した真の遺産とは、広大な帝国でもなく、二千年経ってもまだ立っている遺跡でもなく、宗教が異なろうと人種や肌の色がちがおうと同化してしまった、彼らの開放性ではなかったか。 それなのにわれわれ現代人は、あれから二千年が経っていながら、宗教的には非寛容であり、統治能力よりも統治理念に拘泥し、多民族や多人種を排斥し続けるのをもやめようとしない。(下・208~209P)

西暦紀元の前と後のちょうど境めに生きたギリシア人の歴史家ディオニッソスは、その著作「古ローマ史」の中で次のように言っている。 「ローマを強大にした要因は、宗教についての彼らの考え方にあった」 ローマ人にとっての宗教は、指導原理ではなく支えにすぎなかったから、宗教を信ずることで人間性までが金縛りになることもなかったのである。強力な指導原理をもつことには利点もあるが、自分たちと宗教を共有しない他者は認めないとする、マイナス面も見逃せない。 ディオニッソスによれば、狂信的でないゆえに排他的でもなく閉鎖的でもなかったローマ人の宗教は、異教徒とか異端の概念にも無縁だった。戦争はしたが、宗教戦争はしなかったのである。 (上・74P)

ローマ人の柔軟性は、経済人であったヴェネツィア人さえもはるかに越えていた。ローマでは、執政官を務めた者も、財務官に選ばれれば財務官を務める。ローマでは、上位にあった者が下位の官職を務めることは、政官界にかぎらず軍隊でも行われ、不名誉とも不適切とも思われていなかった。 (下・113P)