2013年3月2日土曜日

【6】ローマ人の物語35~37 最後の努力(新潮文庫)

紀元4世紀前半、古代ローマ帝国はパクスロマーナ(紀元前27年~紀元180年)から100年以上経ち、誰の目にも国家の衰退が明らかになっていた。この時の皇帝はコンスタンティヌス。前の皇帝のディオクレティアヌスとともに様々な政策を行っていた。「ディオクレティアヌスとコンスタンティヌスの二人の皇帝によって、ローマ帝国は再生したとする研究者は多い。だがこの二人は、ローマ帝国をまったく別の帝国に変えることによって、ローマ帝国を起たせておくことには成功したのである」

研究者の一人は言う。「もしもコンスタンティヌスが存在しなかったとしたら、キリスト教会は、教理の解釈をめぐってのたび重なる論争とその結果である分裂につぐ分裂によって、古代の他の多くの宗教同様に消え失せていただろう」313年、この皇帝が出した「ミラノ勅令」で宗教の自由を認め、325年、ニケーア公会議を開き、この会議で決まった「形」でのキリスト教が、今に至るまでの「キリスト教」となった。

塩野氏の本によると、コンスタンティウスはどうやら異端とされたアリウスの考えに共鳴していたようだが、それまで正統的考え方とされてきた三位一体説を認め、キリスト教会の組織としての統一を重視したとされる。 「権力者に権力の行使を託すのが人間であるかぎり、権力者から権力を取り上げる、つまり権力者をリコールする、権利も人間にありつづけることになる。だが、もしもこの権利が、人間ではなく、他の別の存在にあるということになったらどうだろう」。コンスタンティヌス帝の必要を満足させる神は、一神教の神しかいなかった。

-------------------おまけ--------------------
塩野氏は宗教を一歩引いて見ている。興味深い箇所を引用してみる。 「論理的に見るならば、神とイエス・キリストとは同位ではないとするアリウス説の方に説得力がある。また、十字架上で死んでも、人間に対して優しく深い真実の道を説いた人としてのイエスで、充分ではないかとする考え方もあるだろう。とは言うものの、キリスト教徒ではない私でも、三位一体説のほうを選択したキリスト教の聖職者たちの想いもわかるのだ。なぜなら人間は、真実への道を説かれただけでは心底からは満足せず、それによる救済まで求める生きものだからである」 「アリウスの説よりも三位一体説のほうを選択した四世紀当時のキリスト教会の判断は、事実か事実でないかよりも信じるか信じないかに基盤を置く宗教組織としては、まことに適切であったと考えるしかない。いや、三位一体説を採用したからこそ、世界宗教になっていく道が開けたとさえ思う。そして、これを決めたのが、コンスタンティヌスが主導したニケーア公会議なのであった」

2013年3月1日金曜日

【5】★ローマ人の物語32~34 迷走する帝国(新潮文庫)

三世紀の危機の要因
・帝国指導者層の質の劣化
・蛮族の侵入の激化
・経済力の衰退
・知識人階級の知力の減退
・キリスト教の台頭

ローマ帝国の衰退の原因の一部となった3世紀の二つの法律を紹介したい

◆皇帝カラカラ(在位211~217)のアントニヌス勅令
ローマ帝国の社会の層は、皇帝-元老院階級-騎士階級-一般階級-解放奴隷-奴隷というように細分化されていた。細分化が可能であったのは、民主政体をとっていないローマでは、市民全員の平等の維持に気を使う必要がなかった。だが、この階級の細分化が、異分子の導入を促進させる結果になった。なぜなら、各階層の流動性さえ機能していれば、同質社会よりも異質社会のほうが風通しを良くするには都合がよい。他国人のような異分子に対しても、まずは最後列に並んでください、その後の前進はあくまでもあなた次第と言えるからである。それを皇帝カラカラは一変させてしまった。「アントニヌス勅令」と呼ばれた法律で、ローマ帝国内に住む自由な身の人々全員にもれなくローマ市民権を与えると定めた。紀元4世紀以前のローマ帝国の政策に賛成したことのないキリスト教会だが、この法律だけは、人道的であったと誉めている。だが、これによる影響は、ヒューマンな法と誉めていられないほど大きなものになる。
まず第一に、従来のローマ市民権所有者から、帝国の柱は自分たちだという気概を失わせた。
第二に、新たにローマ市民の列に加わった旧属州民からは、向上心や競争の気概を失わせた。
第三だが、これこそがカラカラ帝の意図を裏切る結果であったことと思うが、ローマ市民に格上げされたはずの旧属州民なのに、積極的に帝国を背負う意気を一向に示さなかった。現代の投票時の棄権率の高さも、これを実証する一例になるだろう。
第四は、属州民とローマ市民の境を撤廃したことで、ローマ社会の特質でもあった流動性を失わせてしまった。
最後に、奴隷や下層市民に生まれた人には上昇の機会が断たれることとなる。
カラカラによって、ローマ市民権は長く維持してきたその魅力を失ったのである。魅力を感じなくなれば、市民権に付随する義務感も責任感も感じなくなる。そしてそれは、多民族多文化多宗教の帝国ローマが立っていた、基盤に亀裂を生じさせることにつながった。誰でも持っているということは、誰も持っていないと同じことなのだ。
(上・28-51p)

◆皇帝ガリエヌス(在位253~268)の法律
ガリエヌスが立案し成立させた法の中で後世の評価が一致して悪いのは、「元老院」と「軍隊」の完全分離を定めた法である。元老院議員を、ローマ軍の将官クラスから、完全に排除することを決めた法であった。
なぜこのような政策を、ガリエヌスが考え実施したかはわからない。苦境の打開に奔走する皇帝に元老院が協力しようとしないのに腹を立てたからだという説がある。また、もはや常態と化している蛮族の来襲を迎え撃つには軍事のプロしか通用せず、安全な首都ローマの元老院で演説の草稿を練るしか能のない元老院議員は、戦場では役に立たなくなったからだ、とする説もある。おそらく、二説とも正しいのであろう。
元老院議員たちは、自分たちを軍務からしめ出すこの法に賛成票を投じたのである。
兵士を率いて敵陣に突撃する一個中隊の隊長ならば、政治とは何たるかを知らなくても立派に職務は果たせる。しかし、軍務とは何たるかを知らないでは、政治は絶対に行えない。軍人は政治を理解していなくてもかまわないが、政治家は軍事を理解しないでは政治は行えない。
ギボンの昔から現代に至るまでのローマ史の専門家による、このガリエヌスの法に対する批判を一言でまとめれば、力に関与しなくなれば統治力も失われる、である。軍務と政務を完全分離したことによる人材形成面での弊害も、その後のローマにもたらした影響は大きかったと信ずる。なぜなら、ガリエヌスの後に排出してくる軍人皇帝たちを見ても、軍人としての能力では優れているにもかかわらず、政治家ではなかった。この事実が実証するように、以後のローマ帝国は、軍事もわかる政治家、政治も分かる軍人を産まなくなってしまう。これもまた、ローマの非ローマ化、の一つであるのだった。
(下・36-40p)




2013年2月22日金曜日

【4】★★★ローマ人の物語11~13 ユリウス・カエサル ルビコン以後(新潮文庫)

「ローマ人の物語11~13 ユリウス・カエサル ルビコン以後(新潮文庫)」はいつ読んでも面白い。この巻は、共和政ローマの内戦とカエサル暗殺そして、アントニウスとアウグスティヌスとの内戦という、激動の時代を扱っている。整理するため、内戦からカエサルの暗殺まで、流れを自分なりにまとめてみた。



紀元前41年1月12日、ルビコン川を渡って、国家の反逆者となったカエサルは、そのままローマを制圧した。この時点でカエサルの勢力圏は、ローマ本国(シチリア、コルシカ島など含む)とガリア。一方の政敵ポンペイウスは、ギリシア、小アジア、シリア、エジプト等のオリエントとアフリカ、スペインであった。経済力の差でいくと、ガリアは4千万セステルティウスの属州税の支払い能力に対し、小アジアとシリアだけで2億セステルティウスであり、圧倒的にポンペイウスの方が有利であった。

カエサルとポンペイウスとの内戦をまとめてみる(○が勝利、●が敗北)。
<スペイン戦役(紀元前49年6月~9月)>
○カエサル軍(指揮官カエサル)の兵力⇒6個軍団2万7千の重装歩兵に騎兵は3千。
●ポンペイウス軍(指揮官アフラニウスとペトレイウス)の兵力⇒5個軍団3万の重装歩兵に現地兵4万8千の計7万8千の歩兵。騎兵は5千。他にヴァッロ率いる2個軍団。
結果⇒カエサルのスペイン制圧。スペインにおけるポンペイウス軍の解体。

<アフリカ戦線(紀元前49年8月)>
●カエサル軍(指揮官クリオ)の兵力⇒2個軍団2万五千と5百騎⇒全滅
○ポンペイウス軍(ヌミディア王ユバ)⇒1万の歩兵、2千の騎兵、60頭の象

<アドリア海の制海権を巡る戦い(紀元前49年8月)>
●カエサル軍(指揮官ドラベッラとアントニウス)⇒20個大隊1万2千と40隻⇒ほぼ全滅
○ポンペイウス軍(指揮官リボ)

<ドゥラキウム(ギリシア西部)攻防戦(紀元前48年4月~7月)>
兵力の少ないカエサルが、ポンペイウスの守るドゥラキウムを包囲
●カエサル軍(指揮官カエサル)⇒2万と8百騎⇒歩兵1千騎兵2百騎が戦死
○ポンペイウス軍(指揮官ポンペイウス)⇒6万
結果⇒カエサルの撤退。ギリシア中部への転進。

<ファルサルス(ギリシア中部)の会戦(紀元前48年8月)>
○カエサル軍(指揮官カエサル)⇒2万2千と1千騎
●ポンペイウス軍(指揮官ポンペイウス)⇒4万7千と7千騎⇒死者6千、捕虜2万4千
結果⇒ポンペイウス軍完敗。ポンペイウスはエジプトへ逃亡し、その地で殺害さる(同年9月)。
カエサルは、かつての盟友の死をその著作に「アレクサンドリアで、ポンペイウスの死を知った」とだけ書いた。

現代のイギリスの研究者は、次のように書く。
「ポンペイウスは、戦場ならば、カエサルが敵にまわすに値したただ一人の武将であった。だが、ドゥラキウムでのカエサルが、敗北を喫した軍では最後に戦場を捨てた戦士であったのに対し、ファルサルスでのポンペイウスは、最初に戦場を捨てた戦士だったのである。そして、天才と単に才能のある者を分けるのは知性と情熱の合一だが、ポンペイウスにはそれが欠けていた」


紀元前44年3月15日はカエサル暗殺の日である。暗殺実行犯の14人の動機は、王政への移行を阻止し、元老院主導の共和政にもどすことにあった。「人間ならば誰にでも、すべてが見えるわけではない。多くの人は、自分が見たいと欲する現実しか見ていない」とカエサルは言った。カエサルの考えていたのは「帝政」という新政体であったが、それを「見たいと欲しない」彼らが見ていたのは、あくまでも初期のローマの政体であり、当時の他の君主国の政体でもあった「王政」であったからだ。王政がカエサルの窮極の意図ならば、それを実現の前につぶさねばならぬ。これで14人は一致したのである。

暗殺派の精神的主柱キケロの考える「祖国」は、彼が理想としたのがポエニ戦役時代のローマであったことからも、本国に生まれたローマ人が、それもローマ人中のエリートである元老院階級が、主導権をふるって統治する国家であった。そのキケロにしてみれば、北のルビコン川に南のメッシーナ海峡という、本国と属州をへだてる国境は自明の理であり、その国境の内側だけが「祖国」であったのだ。
一方、カエサルの考えた「祖国」には、防衛線はあっても国境はない。本国に生まれたローマ市民の、しかもその中の元老院階級に生まれた者だけが、国政を専有しなければならないとも考えていない。被征服民族の代表たちに元老院の議席を与えて、ローマ人純血主義のキケロやブルータスらの反撥を買ってしまったくらいなのだ。カエサルには、国家のためにつくす人ならば、ガリア人でもスペイン人でもギリシア人でも、いっこうにかまわないのであった。ただし、カエサルの「祖国」は、ローマ文明の傘の下に、多人種、多民族、多宗教、多文化がともに存在しともに栄える、帝国であったことは言うまでもない。

イタリアの高校の歴史の教科書は、「3月15日」を次のように言い切る。
<懐古主義者たちの自己陶酔がもたらした、無益どころか有害でしかなかった悲劇>




2013年2月19日火曜日

【3】★ローマ人の物語8~10 ユリウス・カエサル ルビコン以前(新潮文庫)

ユリウス・カエサルは古代ローマ最大のスーパースターだ。お金も地位もないところからスタートした彼が、どのようにしてトップへの道筋を歩んでいくのかが描かれているのが、「ローマ人の物語8~10 ユリウス・カエサル ルビコン以前(塩野七生著、新潮文庫)」だ。著者が、このシリーズ中、一人の人物に最もページを割いていることからも分かるように、知れば、その人の魅力にひかれ、読むことも語ることも、時間を割くこと間違いなしだ。文章量の多さが、質の高さとイコールするものではないが、カエサルの濃密な人生は、現代の人々も魅了して止まない。


◆カエサルの人となりを表す文章の抜粋◆
一説によれば、会計検査官就任までにカエサルが積み重ねた借金の総額は、一千三百タレントにものぼったという。十一万以上の数の兵士を一年間まるまる雇える金額である。
それにしても、何に費やしたのか。政界キャリアをはじめる以前の借金なのだから、選挙運動費でもなければ、人気取りを狙った、剣闘士試合の主催費でも街道の修理費でもない。カエサル家の経済状態がつつましいものだったので他人から借りたのだが、諸々の史料からうかがえる費消先は、次の三つに大別できるようである。
第一は、自分自身のため。
カエサルの読書量は、当時の知識人ナンバー・ワンと衆目一致していたキケロでも認めるところであった。当時の書物は、高価なパピルス紙に筆写した巻物である。当然だが、高くついた。そのうえ、若きカエサルはお洒落の面でも有名だった。凝れば凝るほどお金はかかったのである。
カエサルのおおらかな借金の第二の理由は、史家たちによれば、彼の友人づきあいのおおらかさにあったとなる。
莫大な額になった借金の第三の原因は、愛人たちへのプレゼント代であった。この面でも彼のおおらかさは有名で、自ら選んだ高価な品を女たちに贈るので評判だった。
名家出身でも金持ではなく、輝かしいキャリアなど薬にしたくもなかったのが当時のカエサルだが、また、女性的と思われるほど整った顔立ちを美男とした古代では、特別な美男子でもなかったが、すらりと背は高く均整のとれた肉体と、生き生きとした黒い眼と、立居振舞いの争えない品位は、彼を、同年輩の若者たちに混じっていてもひときわ目立つ存在にしただろう。それに加えて、アイロニーとユーモアをふくんでの彼の会話も楽しかった。高価な物などを贈らなくても、女たちにモテたろう。しかし、贈物をもらえば、女は嬉しく思う。カエサルは、モテるために贈物をしたのでなく、喜んでもらいたいがために贈ったのではないか。女とは、モテたいがために贈物をする男と、喜んでもらいたい一念で贈物をする男のちがいを、敏感に察するものである。(120‐124P)




2013年2月17日日曜日

【2】★★★ローマ人の物語3~5 ハンニバル戦記(新潮文庫)

『ハンニバルとスキピオは、古代の名将5人をあげるとすれば、必ず入る二人である。現代に至るまでのすべての歴史で、優れた武将を十人あげよと、言われても二人とも確実に入るにちがいない([下]62P)』と著者の塩野七生氏は述べている。同じ格の才能をもつ名将同士が戦うのは、歴史上、まれな例であるらしく、実際にそれが起きるのがこの「ハンニバル戦記」だ。生死を賭けた駆け引きは読んでいて飽きない。と同時に国家や人生の無常も感じる内容だ。 第三次ポエニ戦争のローマ軍司令官スキピオ・エミリアヌスは、陥落したカルタゴの街を前にこのように言ったという。「今われわれは、かつては栄華を誇った帝国の滅亡という、偉大なある瞬間に立ち合っている。だが、この今、わたしの胸を占めているのは勝者の喜びではない。いつかはわがローマも、これと同じときを迎えるであろうという哀感なのだ」


≪第一次ポエニ戦争(前264~前241)≫
◆戦争勃発の原因◆
シチリア島の西部を支配していたカルタゴが、東北部の独立国メッシーナに侵攻したことがきっかけとなり、メッシーナはローマに救援を要請、ポエニ戦争の先端が開かれる。

◆主な戦域◆
カルタゴ領シチリアおよびカルタゴ領アフリカ

◆戦争の推移(ローマ側勝利を○、カルタゴ側勝利を●で表記)◆
・前264年
○ローマ軍の勝利(カルタゴと同盟していたシラクサ軍を撃破)
○ローマ軍の勝利(カルタゴ軍を撃破)
○ローマ軍シラクサを包囲
・前263年
○ローマとシラクサが講和
・前262年
○ローマが島南部のカルタゴ側の都市アグリジェントを攻略
・前260年
○ローマ海軍大勝(ミラッツォ沖の海戦:カルタゴ軍の死者3千、捕虜7千)
・前257年
○ローマ海軍勝利(パレルモ沖の海戦)
・前256年
○ローマ海軍大勝利(リカータ冲の海戦)
○ローマ軍、アフリカ北岸のカルタゴ側の都市クルペアを攻略
・前255年
●カルタゴ軍大勝利(アフリカでの会戦:カルタゴ軍1万6千VSローマ軍1万5百、ローマ軍の死者8千)→クルペアからの撤退(アフリカ侵攻作戦失敗)→撤退中、海難事故6万人死亡
○ローマ軍海軍勝利(ヘルマエウム岬の沖合の海戦)
・前253年
○ローマ軍、カルタゴ側の都市パレルモを攻略。 
○ローマ軍大勝利(パレルモ攻防戦、カルタゴ軍の戦死者2万)
・前249年
●カルタゴ海軍大勝利(トラパニ港外の海戦、ローマ軍の戦死者2万)
・前242年
○ローマ軍、カルタゴ側の都市マルサラを攻略
・前241年
○ローマ海軍勝利(エガディ諸島冲の海戦)
○ローマとカルタゴ、講和

◆講和内容◆
カルタゴのシチリアからの撤退、賠償金


≪第二次ポエニ戦争・ハンニバル戦争(前219~前202)≫
◆戦争勃発の原因◆
カルタゴの将軍ハンニバルがスペインにあるローマの同盟都市サグントを攻略。これにローマが宣戦布告したことで、戦端が開かれる。

◆主な戦域◆
イタリア、カルタゴ領スペイン、カルタゴ領アフリカ

◆戦争の推移◆
・前218年
●ハンニバル、歩兵9万、騎兵1万2千を連れ、カルタヘナから出陣→アルプス越えを達成した時の兵力は、歩兵2万、騎兵6千
●ハンニバル軍、勝利(イタリア北部・ティチーノの戦い;ハンニバル軍4千以上VSローマ軍4千→ローマ軍600名が捕虜に)
●ハンニバル軍、大勝利(イタリア北部・トレッビアの会戦:ハンニバル軍3万8千うち騎兵1万VSローマ軍4万うち騎兵4千弱→ローマ軍の戦死者2万)
・前217年
●ハンニバル軍、大勝利(イタリア中部・トラジメーノ河畔の戦い:ハンニバル軍5万VSローマ軍2万5千→ハンニバル軍の戦死者2千、ローマ軍の戦死者1万7千・捕虜6千)
・前216年
●ハンニバル軍、大勝利(イタリア南部・カンネの会戦:ハンニバル軍5万うち騎兵1万VSローマ軍8万7千うち騎兵7千2百→ハンニバル軍の戦死者5千5百、ローマ軍の戦死者7万)
●ローマの同盟都市でイタリア中部の中核都市カプアがハンニバル側につく
・前215年
●ローマの同盟都市シラクサがハンニバル側につく
●ハンニバル、マケドニア王国と同盟
・前213年
●ハンニバル、イタリア南部の中核都市ターラントを攻略
・前211年
○ローマ軍、シラクサを攻略
○ローマ軍、カプアを攻略
●カルタゴ軍、ローマ軍に大勝利(スペイン戦線にて)
・前210年
●ハンニバル軍、南イタリア戦線で勝利
○ローマ軍、ハンニバル軍に勝利(ネミストローネの会戦)
・前209年
○スキピオ率いるローマ軍、スペインのカルタゴの本拠地であるカルタヘナを急襲、攻略
○ローマ軍、ターラントを攻略
・前208年
○スキピオ軍、勝利(スペイン・ベクラの会戦:スキピオ軍2万5千VSカルタゴ軍2万五千→カルタゴ軍の死者8千、捕虜1万2千)
・前207年
○ローマ軍、アルプス越えしてきたカルタゴ軍に大勝利(ローマ軍4万VSカルタゴ軍5万)
・前206年
○スキピオ軍、大勝利、スペイン制覇(スペイン・イリパの会戦:スキピオ軍4万8千うち騎兵3千VSカルタゴ軍7万4千うち騎兵4千)
・前205年
○ローマ、マケドニア王国と講和
○スキピオ軍、イタリア南部のロクリを攻略、ロクリは10年ぶりにローマに復帰
・前204年
○スキピオ軍2万6千がアフリカに上陸
○カルタゴ軍1万4千がジェノヴァに上陸、イタリア北部に侵攻するが、敗北
○スキピオ軍、大勝利(アフリカでの戦い:スキピオ軍2万6千VSカルタゴ軍9万3千→カルタゴ軍の戦死者3万)
○スキピオ軍、勝利(アフリカでの戦い:スキピオ軍2万6千?VSカルタゴ軍5万2千以上?)
・前203年
○ハンニバル、イタリアの占領地放棄。1万5千のみ連れて、イタリア南部からアフリカへ撤退
○ジェノヴァのカルタゴ軍8千も、アフリカへ撤退
・前202年
○スキピオ軍、大勝利(アフリカ・ザマの会戦:スキピオ軍4万うち騎兵6千VSハンニバル軍5万うち騎兵4千→スキピオ軍の戦死者1千5百、ハンニバル軍の戦死者2万以上、捕虜2万以上)
○ローマ、カルタゴと講和

◆講和内容◆
カルタゴの海外領土の放棄、カルタゴの自衛レベルへの軍事力削減、賠償金


《第三次ポエニ戦争(前149~前146)》
◆戦争勃発の原因◆
ローマの同盟国ヌミディアのカルタゴ国内への侵攻に対するカルタゴ軍の反攻

◆戦争の結末◆
ローマ軍による2年以上のカルタゴの包囲の末、落城。市民6万人のうち5万人が奴隷に。700年の歴史を持つカルタゴの滅亡。カルタゴのかつての領土は、ローマの属州となり、「属州アフリカ」に変わった。


【1】ローマ人の物語1~2 ローマは一日にして成らず(新潮文庫)

このブログは、姉妹サイトの「私が選ぶ就職・キャリアの本50冊」より分離・独立して作成しました。テーマを絞っていくためです。今後ともよろしくお願いいたします。

まず最初に紹介する本は、「ローマ人の物語1、2 ローマは一日にして成らず(塩野七生著、新潮文庫)」です。これまでに、同シリーズの作品は、何冊か紹介してきましたが、この本は記念すべきシリーズ第一作となります。

小さな町にすぎなかったローマが大国となった理由に著者は、言及していますので、以下に挙げてみます。 ローマ興隆の要因について、三人のギリシア人は、それぞれ次のように指摘している。 ハリカルナッソスのディオニッソスは、宗教についてのローマ人の考え方にあった、とする。人間を律するよりも人間を守護する型の宗教には、狂信的傾向がまったくなく、それゆえに他の民族とも、対立関係よりも内包関係に進みやすかったからだろう。他の宗教を認めるということは、他の民族の存立を認めるということである。 自身政治指導者であったポリビウスとなると、ローマ興隆の要因は、ローマ独自の政治システムの確立にあった、と考える。王政、貴族政、民主政という、それぞれが共同体の一部の利益を代表しがちな政体に固執せず、王政の利点は執政官制度によって、貴族政の利点は元老院制度によって、民主制度のよいところは、市民集会によって活用するという、ローマ共和政独自の政治システムに興隆の因があるとしたのだった。なぜなら、この独自の政治システムの確立によって、ローマは国内の対立関係を解消でき、挙国一致の体制を築くことができたからである。 一方、プルタルコスとなると、ローマの興隆の要因を、敗者でさえも自分たちと同化する彼らの生き方をおいてほかにない、と明言している。(下・206~207P)

これら三人の史家の指摘は、私には三人とも正しいと思われる。それどころか、ローマ興隆の要因を求めるならば、この三点全部であると思うのだ。なぜなら、いずれも古代では異例であったというしかないローマ人の開放的な性向を反映していることでは共通するからである。 古代のローマ人が後世に遺した真の遺産とは、広大な帝国でもなく、二千年経ってもまだ立っている遺跡でもなく、宗教が異なろうと人種や肌の色がちがおうと同化してしまった、彼らの開放性ではなかったか。 それなのにわれわれ現代人は、あれから二千年が経っていながら、宗教的には非寛容であり、統治能力よりも統治理念に拘泥し、多民族や多人種を排斥し続けるのをもやめようとしない。(下・208~209P)

西暦紀元の前と後のちょうど境めに生きたギリシア人の歴史家ディオニッソスは、その著作「古ローマ史」の中で次のように言っている。 「ローマを強大にした要因は、宗教についての彼らの考え方にあった」 ローマ人にとっての宗教は、指導原理ではなく支えにすぎなかったから、宗教を信ずることで人間性までが金縛りになることもなかったのである。強力な指導原理をもつことには利点もあるが、自分たちと宗教を共有しない他者は認めないとする、マイナス面も見逃せない。 ディオニッソスによれば、狂信的でないゆえに排他的でもなく閉鎖的でもなかったローマ人の宗教は、異教徒とか異端の概念にも無縁だった。戦争はしたが、宗教戦争はしなかったのである。 (上・74P)

ローマ人の柔軟性は、経済人であったヴェネツィア人さえもはるかに越えていた。ローマでは、執政官を務めた者も、財務官に選ばれれば財務官を務める。ローマでは、上位にあった者が下位の官職を務めることは、政官界にかぎらず軍隊でも行われ、不名誉とも不適切とも思われていなかった。 (下・113P)