2013年4月5日金曜日

【9】★マキアヴェッリ語録(新潮文庫)

「マキアヴェッリ語録(塩野七生著、新潮文庫)」は学生の時に読んだ本で、10年ぶりに再度読んでみました。学生の時はよく分からなかったことも、時が経てば、感じ方も変わってきます。著者の塩野氏は、「実際に役に立つものを書くのが自分の目的だ」というマキアヴェッリの言葉を引用し、彼の「生の証し」のエッセンスを現代の日本人に提供したかったと、冒頭で述べています。現代にも通じる普遍性のあるマキアヴェッリの語録の中から、私が気に入ったセンテンスをランキング形式でご紹介します。

【ランク外】 人間というものは、現にもっているものに加え、さらに新たに得られるという保証がないと、現にもっているものすら、保有しているという気分になれないものである。 (233p)

【ベスト5】 不正義はあっても秩序ある国家と、正義はあっても無秩序な国家のどちらかを選べと言われたら、わたしは前者を選ぶであろう。 (148p)

【ベスト4】 君主(指導者)たらんとする者は、種々の良き性質をすべてもち合わせる必要はない。 しかし、もち合わせていると、人々に思わせることは必要である。 いや、はっきり言うと、実際にもち合わせていては有害なので、もち合わせていると思わせるほうが有益なのである。 思いやりに満ちており、信義を重んじ、人間性にあふれ、公明正大で信心も厚いと、思わせることのほうが重要なのだ。 それでいて、もしもこのような徳を捨て去らねばならないような場合には、まったく反対のこともできるような能力をそなえていなかればならない。 (67‐68p)

【ベスト3】 古代のローマ人は、名誉を尊ぶ気持が非常に強い民族だったが、それでもなお、かつての部下に命令される立場になっても、不名誉なこととは少しも考えなかった。 高位にあった者がそれ以下の任務を与えられると恥と思われている現代(十六世紀)では、想像もできない現象である。 しかし、これでは、個人の名誉は守られるかもしれないが、共同体にとっては、不利にならざるをえない。 共和国にとって信頼できる市民とは、下位から上位に昇進する者よりも、上位から下位にさがっても不満なく任務をまっとうする人物である。 なぜなら、前者は経験が不足しているので周囲に人を得て事を進め、それによって信頼を獲得するには、ある程度の時間を必要とするからである。反対に後者には、そのための時間は必要ではない。ために、ただちに戦力になりえるのだ。 (156‐157p)

【ベスト2】 古今東西多くの賢人たちは、想像の世界にしか存在しえないような共和国や君主国を論じてきた。しかし人間にとって、いかに生きるべきかということと、実際はどう生きているかということは、大変にかけ離れているのである。 だからこそ、人間いかに生きるべきか、ばかりを論じて現実の人間の生きざまを直視しようとしない者は、現に所有するものを保持するどころか、すべてを失い破滅に向うしかなくなるのだ。 なぜなら、なにごとにつけても善を行おうとしか考えない者は、悪しき者の間にあって破滅をせざるをえない場合が多いからである。 それゆえに、自分の身を保とうと思う君主(指導者)は、悪しき者であることを学ぶべきであり、しかもそれを必要に応じて使ったり使わなかったりする技術も、会得すべきなのである。 (62‐63p)

【ベスト1】 なぜ古代では秩序が保たれ、なぜ現代(十六世紀)では無秩序が支配しているかの理由解明は、これまた簡単である。 すべては、昔は自由人であったのが、今では奴隷の生活をするしかないことにある。 前にも説明したように、自由に生きることのできる国では、社会全体が繁栄を享受できるようになるとは、歴史が示してくれる真実である。 そのような社会では、結婚を避ける傾向もなく、財産を減らすおそれももたずに子孫を増やすことができたので、人口は健全な増え方をしたのであった。 親たちは、自分の子が自由な社会に生き、それゆえに才能さえあれば、指導者階級に属することも可能だと信ずることができたから、子の生まれるのを喜び、その子たちの養育にも力を入れることができたのだ。 このような国家では、あらゆる分野での富が増えつづける。人々は、富を増やせば増やすほど、それを享受する喜びも増すことを知っていたからである。 このような社会では、自由競争の原理が支配的になる。私的な利益と公的な利益の両方ともが、ごく自然な形で追求されるようになる。結果は、両方ともの繁栄につながるのだ。 (148-149p)


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