「ローマ人の物語」の中で、塩野七生がどのようにキリスト教を描いているのかを抜き出してみた。
1.悪名高き皇帝たち[二] 18 (177-178P)
ピラトがユダヤ側の圧力に屈せずに、自分が体現するローマの法に従って行動していたとしたら、イエスの十字架上の死は実現しなかったのである。
神の名を簡単に口にすることはユダヤ教ならば極刑に値しても、神々のたくさんいるローマでは罪にもならないからだ。
また、社会不安の源になる可能性大という理由も、実際になったわけではなく可能性にとどまるならば、ローマ法では追放に処されて終わりだった。
だが、十字架上で死なずに黒海あたりに追放になったイエスでは、後のキリスト教拡大の起因になりえなかったであろう。
ピラトはこの一事だけでも、祖国ローマに害をもたらしたのである。
2.迷走する帝国[下] 34 (114-115P)
ローマ皇帝アウレリアヌスの前に、互いに争う二派の代表が呼び出された。
争点とは、キリスト教会では、ローマの司教とアンティオキアの司教のどちらが上位に立つべきか、であった。
ローマの司教が上位であるべきとする派と、アンティオキア司教上位派で争っていたのだった。
この問題の裁決を求められた皇帝アウレリアヌスは、何を判断の基準にしたのか不明だが、キリスト教会ではローマの司教が最上位にくるという裁決を下したのである。
これが、キリスト教徒が決めたことではなく、キリスト教徒が決めたことであったという事実が興味深い。
3.キリストの勝利[中] 39 (177、68-69P)
後世が信じ込んでいるようには、四世紀のローマ帝国はキリスト教一色ではなかった。
いまだ異教勢力は、キリスト教勢力が強かった帝国の東方でさえも無視できない力をもっていた。
ユリアヌスの登位を機に各地で頻発した異教徒たちのキリスト教コミュニティへの反撃が、それを実証している。
また、キリスト協会自身も内部抗争が激しく、近親憎悪ではないかと思うほどに、アリウス派とアタナシウス派は憎み合っていたし、さらにこの両派の内部でも、教理の解釈の微細なちがいをかかげての抗争は激増していたのである。
ユリアヌスは、後代の歴史家たちがこぞって言う、「キリスト教と異教の抗争の最後の世紀」であった四世紀のローマ帝国に生きた人の一人なのである。
それで、「背教者」と弾劾されることになるユリアヌスの行った反キリスト教会とされる政策だが、それを一言でまとめれば、ローマ帝国民の信教状態を「ミラノ勅令」にもどした、のである。
ユリアヌスによってふたたび、あらゆる信仰がその存在を公認された。
ギリシア・ローマの神々もエジプトのイシス神もシリア起源のミトラ神もユダヤの髪も、キリスト教内部でも、これまで教理解釈の違いで争ってきた、三位一体説をとるアタナシウス派もそれに反対するアリウス派も、またこの二派以外の他の派も、何もかもがOKということになったのである。
信仰の完全な自由を保証する以上は、「異教徒」という蔑称も、「異端」という排斥の想いも、あってはならないというのが、「全面的な寛容」の名の許に向上された、皇帝ユリアヌスの勅令であった。
4.キリストの勝利[下] 40 (138-140P)
人間は、何かにすがりたいから宗教を求める。
だが、すがりたい想いはなぜか、唯一神にお願いするのははばかられるような、身辺の雑事であることが少なくない。
昔は、夫婦喧嘩にさえも守護神がいて、その神に祈願するのでこと足りたのだが、一神教の世の中になった今では、夫婦喧嘩を担当していた女神ヴィリプラカもアウトローの一人になってしまっている。
と言って、唯一最高の神や、その子イエス・キリストにお願いするのも気がひける。
誰か他に、もう少し大仰でなく気軽にすがれる守護者はいないものか。
人々の素朴で健全なこの願望を、アンブロシウスは汲み上げる方策を考え付いたのであった。
とはいえ、キリスト教では神は一人しか認めていない。
ゆえに昔の神々を復活させることはできない以上、新たな守護者を見つける必要があった。
アンブロシウスが考えついたのが、聖人を大量に生産することである。
一神教の世界での敬いの対象であるからには、多神教のような「守護神」ではなく。「守護聖人」となる。
それでも、アンブロシウスは一神教は守りながら民衆の素朴な願望も満足させるという離れ技を、見事なまでに成功させたのであった。
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